功さん家のブログ

ひとりごと

下野のチベット(拡大しました)


 
    下野(しもつけ)のチベット

 今週、久しぶりに晴天に恵まれて、茂木町大瀬にあゆ狩りに行った
手話グルウプ14人である。大瀬は私にとって特別な土地である。
私が医者になったばかり独身の時代である。この地に僻地診療をしたのである
この土地は須藤村と称し低開発も最低な地域だった。
栃木県のチベットと云われていた。道路は土の道であり、冬には立ち 解けると泥の
道になった。自転車が誰もの交通手段であった。冬の道には泥が車につまって動け
ないことはしばしばだった。郵便屋さんも泥の自転車を担いで歩いていた。

私は往診を依頼されると歩いて行ったほうが良いため二時間も歩いたものだ。
冬の寒い日には、夜半に腹痛で往診することが多い。不思議に凍る真夜中に胃痙
攣だから往診してもらいたいと起こされる。行ってみると患者は呻いている。

当時は胃痙攣といっていた。帰ってくると又診療を頼みに来ている人がいた。

当時は、電話はなく、携帯もなかった。往診から帰ってくると別の往診が待ってい
た。寒い夜中の往診が二度あることもしばしばだった。でも治ると家族から喜ばれ
感謝されたのは私を勇気づけた。

 お産でなかなか生まれないから来てくださいと産婆さんから連絡が来て往診して
注射をすると間もなく生まれた。母子とも健やかで皆喜んだ。清めの日本酒を飲ん
でいい気持ちで帰ってくると又往診を頼まれた。3里の道を歩いて山道をゆく。
体力が必要なことは勿論で栄養食が必要だが、当時、田舎には肉はなかった。
せいぜい塩漬けの魚があるだけである。ある農家の孫が熱を出しているというので
往診した。この家は、小魚を煮ていてくれた。診療し、今後のことを説明し終わると、
酒が出る。小魚の甘露煮が出る。これが素晴らしくおいしくて忘れられない。

 村の校医もやっていた。秋の運動会は村人にも楽しい一日である。
私も村人と子供たちと一緒に走る楽しい一日でもある。その日の夜半起こされた。
今日一緒に駆け足をしたが、急に熱を出した、往診を頼むといってきた。肺炎を起こ
していた。当時、冬には肺炎、夏には疫痢で多くの人が死んでいった。お寺の和尚はこのため、毎日葬式で忙しかった。インフルエンザが流行して、往診、往診と忙しく、夜半から日中と休む暇なく働いた。

 一週間目には私がダウンして動けなくなった。胸に蛇行状の腫れができた。熱はないが体がだるく食欲もない。私はてっきり癌ができたと思った。私の親戚の医者に相談したところ、芳賀日赤に連れていってくれた。幸いに癌ではなかった。

 この辺の人々は暖かい心の人々である。いつも協力してくれた。内科、外科は勿
論、皮膚科、眼科、産婦人科などのすべてに対応した診療をしてきた。
不明の場合は専門医に紹介するが、村人は貧しいから大病院に入院するのは余り
望まなかった。

 想えば現時代とは事情が違っていた。
山道の薄暗い林の中に墓地があり、そこで首つり自殺があった。元気で少々毒舌
家のお婆ちゃんが自殺。駐在のお巡りさんと検死を行った。昼間でも淋しいところ
だった。翌日の真夜中、往診を頼まれて、私一人でこの道を歩いて通ることになり、
なんとも淋しいところで、自分の足音が微妙に怖い。帰りもこの道を帰って行った淋
しい真夜中だった。

次の日は、ひと山越えて、歩いての往診である。
暗い夜道は山の頂上に出ると視界が開けた遠くに宇都宮の夜の光が美しく見えた。
あの都会的な生活がしてみたい、と思った。
 
 その後、私はジープを買って往診した。
高い山の上の家に行くにも、泥道にもジープは有難いものだった。

 今、村は合併して茂木町になった。道路は拡張し、舗装され、定期バスが通るよう
になった。水道がひかれ、電話がひかれ、テレビは勿論携帯やスマホ、カラオケボッ
クスまであり、学童はスクールバスで中央校に通い、小学校は改築されて介護施設
になり、ドクターが常住することになった。自家用車とトラックがある農家は、まさに近代化された。  下野のチベットではなくなった。

          生井聖一郎

*文字が読みにくいとの指摘があり、打ち直しました。
 
生井先生は、「今はただの老人です」とにこやかに言い放つ、素敵な方です!